50年の積み重ねが知るミャンマーの素顔 武蔵富装ミャンマー支店長の池谷修さん

 

長年にわたりヤンゴンで仕事をしている日本人は少なくないものの、50年ものキャリアを持つビジネスマンはそうはいない。その特異な経験を持つのが、外交官と商社マンとしてミャンマーに関わってきた、商社の武蔵富装のミャンマー支店長、池谷修さんだ。池谷さんは歴代の政権幹部やミャンマーのビジネスマンらとの人脈を活用して、波のビジネスマンでは実現できないビッグプロジェクトをものにしてきた。その池谷さんに、ミャンマーとともに歩んできた道のりを聞いた。

 

――池谷さんは、大変長くミャンマーで仕事をしていますが、もともとは外交官だったのですね。どうしてこんなに長くミャンマーに関わることになったのでしょうか。

 

私は1968年に外務省に入ったのですが、その当時は欧州に行きたいと思っていました。しかし、ふたを開けてみると「ビルマに行ってもらうことになった」と言われ、そこから縁が始まっています。ビルマ式社会主義の真っただ中です。


池谷修(いけや・おさむ)さん1945年生まれ、静岡県出身。大学在学中に外交官試験に合格して、1968年外務省に入省、ヤンゴンの日本大使館に配属される。74年に退官して、大丸の商社部門に参加。その後大丸の業務を引き継いだ武蔵富装のミャンマー支店長に就任。
中国の文化大革命の影響を受けて、ヤンゴンの中国系住民が毛沢東語録を持って街に繰り出していました。そして政府と衝突して、中国人排斥運動が始まって20万人もの中国人が逃れたのです。逃げてミャンマー国籍を捨てた人間は再入国を認めないという厳しい時代でした。

 

74年に異動で日本に戻るのですが、そのころミャンマー人と結婚することになっていました。しかし、外務省の規則で、結婚すると妻がミャンマー国籍から日本国籍に切り替えないといけません。そうすると、国籍を捨てた妻は国に戻れなくなります。この板挟みのような状態で、外務省を辞めざるを得なくなったのです。

 

外務省を辞める時に上司の紹介で、大丸の商社部門に就職してミャンマー担当になりました。その後ヤンゴンに支店長として駐在することになりました。大丸は戦後すぐにミャンマー政府高官から依頼されて、ミャンマーの国防省と取引をしていました。1960年代の初め、大丸はミャンマー政府から「百貨店を作ってくれ」という依頼を受けて、日本人を10人ほど派遣して商業省の百貨店を作る支援をしたのです。そうした流れの中で、大丸はヤンゴンに駐在員事務所があったのです。

 

――そこから商社マンとしてのキャリアが始まるわけですね。

 

はい、ただ私は、外務省出身ですから、ビジネスも経済も知らなかったのです。わからないから、とにかく大きな仕事をしようと思い、それがかえって良かったのだと思います。八幡製鉄(現新日鉄住金)は当時、ミャンマーでは大商社2社としか取引をしなかったのですが、私はそんなことは知らないので、ミャンマーに鉄の需要があるということで、八幡製鉄の課長を訪ねていったのです。課長は「いや、うちが百貨店と鉄の取引をするわけにはいきません」というのですが、結局商社の担当者を紹介してくれました。それで、その商社から買った鉄をミャンマーに売る仕事がとれたのです。6億円くらいのビジネスになりました。

 

その後は、大丸が手掛けたことのないプロジェクトのビジネスを始めました。1979年ごろにはドイツの借款で行うガラス工場のプロジェクトを、日本のガラスメーカーと組んでドイツの企業と入札で競って、約65億円のプロジェクトを受注しました。工場をパテインに作るのですが、今と違い大きな道路がなく、ヤンゴンから十数時間かかってパテインまで行きました。その後、1980年代には、富士通と組んで通信事業を手掛けたこともあります。その後も含め百数十億円でした。ミャンマーはこの頃社会主義で資金がなく、日本や国際機関の借款や無償援助の案件ばかりでした。

 

大きかったのは、ヤンゴン空港の拡張する案件です。1977年ごろから10年にわたって首を突っ込みました。これはミャンマー政府に資金がないので、日本政府の円借款をつけるところから始まります。結局5百数十億の円借款がつくことになりました。1987年には契約にこぎつけるのですが、88年の暴動で、日本政府が借款がストップしてしまいました。滑走路の改修は終わったのですが、ターミナルビルはできませんでした。この時に止まったプロジェクトは多く、船舶の修理工場の案件などが実現しませんでした。

 

その後は円借款がなくなったので、ジョイントベンチャーを組んで縫製工場を立ち上げました。もう20年になりますが、従業員は2,000人おり、年間40万着の背広と1,000万着のワイシャツを日本向けに出荷しています。人件費は未だに安いですし、長年やっているので人材も育ってきています。従業員寮を設けて地方出身者を活用して、定着率を高めることができたのが、成功のポイントですね。

 

時代は変わっても、ミャンマー人は一度親しくなって信用した人はそのままですね。一見さんを嫌い、新しい人と親しくなるのに時間がかかる保守的な国ですよ。そのため、古くからの人脈はずっと役に立ちました。政府要人とも親しいのですが、大臣になったから親しくする、というのはだめですね。

 

――長年ミャンマーを見てきた立場からすると、現在のミャンマーをどう考えますか。

 

アウンサンスーチー政権には期待しているのですが、やっぱりミャンマーの前政権との共通点があります。それは、トップの意見が強く、それ以外の人がイエスマンになってしまうことです。この国にはエリート意識、階級意識が残っています。それは軍事政権のせいだと言われますが、それだけではなくて文化的な側面もあります。仏様が一番えらくて、次にその掟である法、そしてそれを実践する僧が続きます。それから両親と先生なのですが、このヒエラルキーの社会では、人は反抗できないのです。クリエイティブなことをしてはいけないことになっているので、自分で判断することを恐れます。それは工場労働者などでは良いのかも知れませんが、自分でアイデアを出すことができないことが厳しいですね。その代わり、昔の日本人のようにいい意味での純粋さがありますね。目上の人のことを聞くのも必要なことですので、そこはバランスですね。

 

冗談でよく言っているのですが、マレーシアのマハティール首相は93歳で活躍していますが、そうすると私もまだあと20年くらいあると考えることができます。「もういいや、もう働かない」というのでは死ぬしかないですから。今後は、結果的としてミャンマーの役に立つ仕事がしたいですね。ヤンゴンのますますひどくなる交通渋滞を解決する都市開発に貢献することが夢ですね。

 

【インタビューを終えて】

まさに時代の生き証人と言える池谷さんの話は尽きることがない。日緬に張り巡らせた人脈で日緬のビジネスを側面支援してきた。こうした稀有なビジネスマンがヤンゴンにいることは、ある意味で日本のビジネスインフラと言えるのではないだろうか。冗談ではなく、93歳までミャンマーのために尽くしてほしい。(掲載日2019年2月22日)