ミャンマーでは「タダ同然」の魚を高級魚に 同国産の酢漬けママカリを考案した水産技術者の大宅尚志さん

アウンサンスーチー国家顧問率いる国民民主連盟(NLD)政権が力を入れるのは、ミャンマーの農業など第一次産業の振興だ。国民の大部分が第一次産業に従事しており、均等のとれた発展を目指し、付加価値の高い農業や水産業の育成を目指す。そんな中で、ミャンマーでは見向きもされていなかった海水魚を、高級食材として生まれ変わらせたのが、水産技術者の大宅尚志さんだ。これまで飼料や肥料としてしか利用されてなかった魚を使い、高級食材の「ママカリ」を作る大家さんの挑戦について話を聞いた。

 

――ママカリといえば、岡山県などを中心に、すしなどにして食べられている高級食材ですね。どうしてミャンマーでそれを作ろうと考えたのですか。

はい。ミャンマーのチャウンターなど海沿いで獲れる「ザッパ」や「ヒラ」などの海水魚は、ミャンマー人からは好まれず、これまで畑の肥料や家畜のえさとしてしか使われていませんでした。従って商品価値もほとんどありません。しかし、これらの魚は、日本では酢漬けなどにして加工され、ママカリという高級食材として賞味されているのです。ミャンマー人が食用としていない大きな理由は骨が多いからですが、この問題を日本では酢漬けにすることで、骨を溶かしたり、柔らかくしたりして解決しています。

 

地元の漁港では、この魚は1ビス(=約1.6キロ)あたり、100~200チャット(=約8円~16円)で取引されています。昨年から試験販売という形で、ミャンマーでとれた魚で作る酢漬けのママカリを、ヤンゴンの日本料理店や小売店などに卸していますが、小売り価格は1パックで5,000チャット(=約400円)程度です。これは、計算したところ100倍もの付加価値がついていることになります。

 

酢漬けを作るにはまず、ヤンゴンまで冷やしたまま運搬することが必要で、これは私が業者に氷で低温を保ちながら運ぶように指導しています。そしてヤンゴンの私の研究所(ラボ)で酢漬けに加工して出荷します。自分が儲けるというよりは、この製法をミャンマー人に知ってもらい、付加価値のある漁業として活用してほしいのです。そのため、フライ料理などミャンマー人でも食べやすいママカリの調理法を研究しました。レシピ集やメニュー表としてまとめ、ヤンゴンの料理屋に提供したいと思っています。日本人の業者に注目されれば、日本への輸出もできるようになるのではないでしょうか。


大宅尚志(おおや・ひさし)さん 

1947年熊本市生まれ。地元の商業高校卒業後に松下電工に就職。30歳で退職してエビの研究に打ち込み、テナガエビの孵化技術を確立する。1995年に渡緬して、ミャンマーの水産業の技術指導に従事。現在「LBジャパン」最高技術顧問。ミャンマー出身の妻と長男と共にヤンゴンで暮らす。

――大宅さんはもともとエビの研究で実績を残したと聞いています。

 

そうですね。テナガエビの孵化に初めて成功したのは、実は私なのです。生き物が好きだった私は、高校生のころにブラックタイガーの養殖に成功したというニュースを聞き、私も研究したいと思いました。しかし、高校卒業後に就職したため、しばらくその機会はありませんでした。30歳になったころ、エビの研究をしようと会社を辞めて、テナガエビの孵化と養殖を研究していました。台湾などへ行って研究したところ、テナガエビの稚魚は河口で獲れることがわかり、私も日本の河川の河口の塩が混ざった水を使うことで、孵化に成功しました。そのころは、減反政策が進んで田んぼの活用方法が模索されていたので、会社や自治体から次々と技術を教えてほしいとの依頼を受けました。とても儲かりました。

 

――20年以上前にミャンマーに来たそうですね。

 

初めてミャンマーに招かれたのは、1995年です。エビの養殖の方法を教えてほしいということでした。そのころは、ミャンマー政府にはお金がなかったため、報酬は受け取らず、ボランティアで教えることにしました。ヤンゴンのタケタ地区に水産試験場があるのですが、そこは日本の政府開発援助(ODA)で作られたのです。しかし、試験場が完成した1988年にはミャンマーで民主化運動が起こって、国際協力機構(JICA)の専門家は、ほとんど何も教えることなしに帰国してしまったそうです。それからミャンマー人技術者が苦労してなんとか養殖をしようと頑張ったようですが、技術がないのでうまくいかなかった。そこで私が呼ばれたわけです。そこでエビの養殖を成功させたあとも、いろいろな水産業の指導をしてきました。いけすが破られて魚が盗まれるなどの失敗も多かったですね。

 

その後、魚や和食の料理店を何回か開いたこともありました。串揚げの店はミャンマーの俳優らセレブも来るほどの有名店になりました。まだヤンゴンに日本人が300人程度しかいなかった2000年代の初めころです。現地の食材を使ったミャンマー人向けの価格帯だったため、地元の人に大人気でした。大家の急な値上げに遭ったり、私が病気をしたりして、現在は飲食店はやっていないのですが、ママカリのレシピを作る際などにこの経験が役に立っています。

 

――今後の展開を教えてください。

 

昨年、日本人の共同経営者と一緒に、ヤンゴンにラボを立ち上げました。ここでママカリのほかにも、食品の加工方法の研究を行います。たとえば、ミャンマーの貝類などは、高い付加価値のある商品として有望だと思います。また、ヤンゴン郊外の土地を活用して、農業や畜産などの研究拠点を作る準備もしています。いつまで元気でいられるかわからないので、できるうちにミャンマーの人のためになるものを残したいと思っています。ミャンマー人の役に立つことによって、このラボが成り立っていく形を目指しています。

 

【インタビューを終えて】

ミャンマーに長く暮らす人の話を聞くと、2011年のテインセイン政権誕生以降に押し寄せた日本人ビジネスマンとはまるで違うスケールのエピソードに出会うことがある。大宅さんもそのひとりだ。大宅さんの研究が今後もミャンマーの水産業や食生活をどう変えていくのか、目が離せなくなりそうだ。(掲載日2018年2月28日)