母国ミャンマーに子役養成学校を開設 チャンプ・アジア・プロダクションのテインダンさん

 

2011年に誕生したテインセイン政権による言論に対する規制緩和で、ミャンマーの映像メディアが盛り上がっている。テレビ局が増え、フェイスブックにはニュースチャンネルがひしめく。こうした中で、日本で映画学校を卒業、日本での実務経験を積んでヤンゴンで芸能学校を立ち上げたのが、ミャンマー出身のテインダンさんだ。どうして今、ミャンマーで勝負をかけるのか、その動機に迫った。

 

――テインダンさんは小さいころに日本に来て、それからずっと日本で暮らしていたのですね。

 

はい。私の父は日本で単身赴任で働いていたのですが、6歳のころ、家族が父のもとに行くことになったのです。始めは2年くらいの短期で行くつもりだったのですが、結局そのままでした。茨城県で小学校に入るのですが、はじめはいじめもありました。私が日本映画学校の卒業制作で「エイン」という在日ミャンマー人家族をテーマにした作品を撮ったのですが、そこで出てくる「お前の母ちゃんしょんべん凍らせて食べるんだろ」というような小学生のセリフは実際に自分が言われた言葉です。子どもの悪口って発想がすごいですよね。それでも小学校では自分ひとりのために特別に日本語を教えてくれる特別学級も作ってくれて、ありがたかったです。


テインダンさん

 

チャンプ・アジア・プロダクション社長。1984年ヤンゴン生まれ。6歳の時に日本に渡る。日本映画学校(現日本映画大学)卒業後、映画制作の現場や俳優養成学校でキャリアを積む。2018年以降、日本とミャンマーで活動。

小学校の頃はお金がなかったので、図書館で映画を観るのが好きだったのです。「男はつらいよ」シリーズはほとんど全部観ました。中でも「スタンド・バイ・ミー」は好きでした。そして、中学1年の時に、東京の子役養成学校に入れてもらいました。これはお金がかかるので父は大変だったと思います。役者を目指してまして、そこで実際に学園ドラマなどにも出演しました。そこで会う友人たちはとても考え方がしっかりしていて、そのせいで地元の同級生が幼く見えたものでした。そして高校卒業後、日本映画学校に入ったのです。そこで演出を学び、フリーの助監督として映画制作の現場で仕事をしました。その後、自分が通っていた俳優養成学校に就職したのです。

 

――どうしてミャンマーで事業を立ち上げたのですか。

 

長い間あまりミャンマーとの直接の関りはなかったのですが、民主化の動きには関心がありました。転機は森崎ウィンさんが出演した「マイカントリー・マイホーム」でした。この仕事の誘いがあったので、当時の会社をやめて映画の世界に戻ったのです。この作品の制作が終わった後の2018年4月には日本で会社を立ち上げ、CMの助監督などの仕事をしています。その一方で昨年の10月ごろからミャンマーを訪れて事業の準備を始めました。ヨーミンジーエリアにスタジオを開設し、子役養成のコースを始めたのが今年の6月です。子役養成学校に加え、芸能プロダクションの役割を果たすことを目指しています。

 

今では子役養成学校、映像制作、スタジオのレンタルの3つの事業を行っています。学校では、6歳から12歳くらいの子どもに演技を教えます。ダンスのクラスもあります。ミャンマーの学校では音楽や体育の授業がないので、表現を学ぶことはとても意味があります。子役から始めて18歳になるころにスターになる人がでればうれしいですし、たとえ俳優にならなかったとしても、人生において大変役に立ちます。また将来的には映像に関わるスタッフも養成したいと思ってまして、日本で仕事ができるような人材を育てたいと思います。現在生徒は11人ですが、人数が多いほうが互いに刺激になるので、100人を目指しています。映画も撮りたいと思っています。子どもが好きなので、やはり子どもが登場する作品にしたいですね。

 

【インタビューを終えて】

いま、ミャンマー映画界や映像業界はとても元気がある。需要の増加に加え、米国などから帰国したミャンマー人が、新しい発想で次々とクリエイティブな作品を生み出している。こうした中で、日本の現場でキャリアを積んだミャンマー人が母国で活躍することには大きな意味がある。ミャンマーでは芸能プロダクションと言う業態が確立していないが、近代的でシステマティックな裾野産業が生まれてくるのも時間の問題だ。テインダンさんの学校から、未来のスターが生まれることを期待したい。(掲載日2019年8月2日)